読書のあとに文章を書こうとすると、その著者の文体に似てしまう(あるいは似せてしまう)のは、私だけなのであろうか。
今朝の通勤電車にて、森博嗣著『すべてがFになる』を読了したところだ。
7年前、大学3年生。
地元の大きな書店で立ち読みするのが趣味だった私は、そこで森博嗣に出会った。
というか、森博嗣の存在は知っていたので、「も」の書棚にたどり着いたとき、有名な『すべてがFになる』を読んでみようかと思い手に取ったのである。
POPには「理系ミステリの頂点!」
文系の底面に位置する私は、ごくりと唾をのんだ。
当小説を購入し、実家のソファで愛犬に顔を舐められながら読み始める。
犬とソファが大好きな私。森博嗣がとなりに座る。犬が吠える。
プロローグの小難しい引用を、じっくり2分は読んだだろう。なぜ、ここに、これを。示唆するものとは。要は意味がわからない。
今となっては「あ~、何かの引用ね。森博嗣あるある」でさらっと流せるけれども、大学3年生の私はそこで面食らってしまったのだった。
(2分後)……うん。よし、とりあえず読もう。
(1秒後)(登場人物の多さに頭を抱える)
(20秒後)(名前を覚えるのを諦め、ついに本文を読み進める)
こんなにも理系で、無表情な会話をしてみたい。
感情の共有や適切なリアクション、愛想笑い。私がこの人生で習得してきた所謂「コミュニケーション能力」とは、なんて無意味なんだろう。
友人の悩み相談に乗るたびに、職場の先輩としゃべるたびに、この2人を思い出す。
とはいえ、西之園萌絵は、人間味があるという意味ではかわいいほうだ。幼少期からの知り合い、N大助教授・犀川創平にかわいらしく恋をする女性だ。
犀川創平。
人生において無駄を嫌う(のわりにヘビースモーカー)姿勢には大変共感するけれども、人間味というものが無さすぎる。
「N大」のモデルはたぶんきっと絶対に名古屋大学。そういえば、森博嗣自身も元・名大生かつ名大助教授なのだという。
名大生って、理系って、こんな人ばかりなの?
近しい理系の知人を思い浮かべても、いや、そんな奴はいない。
理科系を研究していた人たちにとっては、当たり前の存在なのかもしれないが。
我々の思う「理系人間」を超極端化した究極の生命体が犀川創平であり、森博嗣なのだ。
論理的思考を突きつめると、人間は森博嗣になる。
転職活動をしているとき、「論理的思考力のある人」を求める企業が多かった。否、99パーセント。
偉そうにおっしゃいますけど、貴社の上層部の皆様は「論理的思考力のある人」なのですか? そんなものが、ふつうの日本人には標準装備なのですか?
転職活動中、森博嗣作品には触れていなかったが、”愛想のよい”犀川創平であれば就活で無双できるだろうな、と疲れ切った頭で考えていた。
文系の底面を這う私は、せめて文体だけでも似せて、森博嗣の理系感覚にあやかりたいところだ。