ジャングル・ウェディングって結構いいじゃん

なぜみんな(だいたいの人は)結婚式を行うのだろう。

5か月前に入籍したばかりの私は、考えている。

生来、人前に出ることが苦手な性格だ。

話題の中心になり視線が集まると、恥ずかしくて恥ずかしくて消えてしまいたくなる。

40名ほどの同僚の前で意見を発表したとき。

頭は真っ白、顔は真っ赤。

そんな私が、大勢の前で堂々と花道を歩いたり、男とキスをしたり、黒歴史だらけの人生を動画にして晒したりするなんて、考えられない。

それなのに、親戚や友人は顔を合わせるたびに「結婚式はいつなんだ」と騒ぎ立てる。

ということで、この騒ぎを鎮めるためにも結婚式を行うことにした。

大勢の前に出るときっと貧血で倒れるので、というか金が無いので、親戚だけ呼ぼうということにもした。

そう、金が無い。

端末(森博嗣の文章を敬愛しているため、スマホをこのように表現させてほしい)で

「結婚式 費用」

と検索すると、なんとなく知ってはいたがやはり100~200万円は必要らしい。

バカ(笑)そんな金ねぇよ(笑)

って旦那と笑い合ったはいいものの、「ゼクシィ相談カウンター」にて改めて料金体系の現実を聞くと、我々は真顔になった。

私がこの人生で「ゼクシィ相談カウンター」に赴くことになるなんて、思ってもみなかった!

と興奮したのも束の間、ウェディング・ビジネスという寡占市場の恐ろしさに、ちょっと、引いた。

ただ、人件費やチャペル等の維持費を思うと、たぶん妥当なのだろう。

不満ばかり並べてなんかすみません、と思った。

とは言っても、できるだけ安く済ませたいというのが本音である。

ある日、数年前から日課となっているtogetterサーフィンをしていると、自分の現状にドンピシャな記事を見つけた。

togetter.com

「100万円ぐらい節約できる」!?

そんな裏技が!?

思わずページを開いたが、著者(と呼びますか?)がアカウントを消してしまったのか、添付ファイル(と呼びますか?)はほとんど見られなかった。

しかし遺された文章により、著者やその知人の方々がいかにして節約結婚式を執り行ったのかは理解できた。

 

ファーストバイトスプーンなるものを手作り

・フラワーシャワーを手作り

・会場の飾りを手作り

・ウェルカムボードを手作り

・テーブルのナンバー表示を手作り

・席次表を手作り

・ゲストの名札を手作り

・ドレスを手作り

・カメラマン業務を友人に依頼

・料理のランクを下げる

・通常より安い日程を選ぶ

……

 

なるほど、手作りをすればたしかに費用は抑えられる。自炊のようなものか。

と感心しながら読み進めると、

この著者は不特定多数からメッタメタに非難されていた。

私はここで、どうやら結婚式は節約するものではないらしい、と知った。

たしかに「料理のランクを下げることだけは、絶対にしてはならない」という話はどこかで聞いたことがある。

そりゃ、3万円も払うのだから、おいしいものが食べたい。

また、手作りされた会場の飾りも、安っぽさは拭えない。

それにしても、ここまで悪口を言われるようなことなのだろうか……

「一生に一度の結婚式をケチるな」

「そうまでして式を挙げたのはなんで?」

「貧乏くさい」

などの意見が散見された。

手作りというのは、一定のクオリティを超えないと、どうしても貧乏くさくなってしまうのは仕方がない。

ただ、

結婚式ってそんなに特別なものなの?

と私はとても驚いた。

私にとって、結婚式とは「ウェディングドレスで最高にきれいな私を見よ!」という、ものすごい自己満足の世界だと思っていた。

そうじゃないんだ。

お世話になった人にお礼をする場だとか、おもてなしする場だとかいう考えは、私にはそれほど無かった(理解はできる)。

 

だって、お礼がしたい相手を勝手に招待した挙句、なんで3万円も徴収するのよ?

矛盾していないかい?

 

「3万円ももらうんだから、せめて料理は最高ランクにしようぜ!」

とか、

「3万円ももらうんだから、席次表のような残る物は見栄えよくしようぜ!」

とか、そういった意見には100%賛同する。

 

私にとってはその程度のものなのだろう。

3万円もらって、ウェディングドレスのきれいな自分を親戚(や友人)に見せて、おいしいご飯食べて、それでいいじゃない。

私は、旦那が沖縄でやりたいって言うから、沖縄でやるさぁ。

沖縄でも地元でもジャングルでもどこでもいいさぁ。

誰がどんな結婚式をしたって、地球が半分に割れるわけではない。

意味のない質問ですね

読書のあとに文章を書こうとすると、その著者の文体に似てしまう(あるいは似せてしまう)のは、私だけなのであろうか。

今朝の通勤電車にて、森博嗣著『すべてがFになる』を読了したところだ。

7年前、大学3年生。

地元の大きな書店で立ち読みするのが趣味だった私は、そこで森博嗣に出会った。

というか、森博嗣の存在は知っていたので、「も」の書棚にたどり着いたとき、有名な『すべてがFになる』を読んでみようかと思い手に取ったのである。

POPには「理系ミステリの頂点!」

文系の底面に位置する私は、ごくりと唾をのんだ。

当小説を購入し、実家のソファで愛犬に顔を舐められながら読み始める。

犬とソファが大好きな私。森博嗣がとなりに座る。犬が吠える。

プロローグの小難しい引用を、じっくり2分は読んだだろう。なぜ、ここに、これを。示唆するものとは。要は意味がわからない。

今となっては「あ~、何かの引用ね。森博嗣あるある」でさらっと流せるけれども、大学3年生の私はそこで面食らってしまったのだった。

(2分後)……うん。よし、とりあえず読もう。

(1秒後)(登場人物の多さに頭を抱える)

(20秒後)(名前を覚えるのを諦め、ついに本文を読み進める)

西之園萌絵

真賀田四季

こんなにも理系で、無表情な会話をしてみたい。

感情の共有や適切なリアクション、愛想笑い。私がこの人生で習得してきた所謂「コミュニケーション能力」とは、なんて無意味なんだろう。

友人の悩み相談に乗るたびに、職場の先輩としゃべるたびに、この2人を思い出す。

とはいえ、西之園萌絵は、人間味があるという意味ではかわいいほうだ。幼少期からの知り合い、N大助教授・犀川創平にかわいらしく恋をする女性だ。

犀川創平。

人生において無駄を嫌う(のわりにヘビースモーカー)姿勢には大変共感するけれども、人間味というものが無さすぎる。

「N大」のモデルはたぶんきっと絶対に名古屋大学。そういえば、森博嗣自身も元・名大生かつ名大助教授なのだという。

名大生って、理系って、こんな人ばかりなの?

近しい理系の知人を思い浮かべても、いや、そんな奴はいない。

理科系を研究していた人たちにとっては、当たり前の存在なのかもしれないが。

我々の思う「理系人間」を超極端化した究極の生命体が犀川創平であり、森博嗣なのだ。

論理的思考を突きつめると、人間は森博嗣になる。

転職活動をしているとき、「論理的思考力のある人」を求める企業が多かった。否、99パーセント。

偉そうにおっしゃいますけど、貴社の上層部の皆様は「論理的思考力のある人」なのですか? そんなものが、ふつうの日本人には標準装備なのですか?

転職活動中、森博嗣作品には触れていなかったが、”愛想のよい”犀川創平であれば就活で無双できるだろうな、と疲れ切った頭で考えていた。

文系の底面を這う私は、せめて文体だけでも似せて、森博嗣の理系感覚にあやかりたいところだ。